2018年3月23日金曜日

再生"音"の芸術性とは・・何ぞや?

そもそも芸術なんて解らないのに、再生"音"の芸術性といったところで私に解かるわけがない。

だからこれは芸術の話ではなく、再生音そのもの芸術性を求めるオーディオマニアの思考を、過去の自分に照らし合わせて考察したただけの、一般論にもならないような取るに足らない話である。


過去の自分の心理状況から察すると、オーディオマニアにとっての至高の再生音とは、自分の頭の中に思い描くイメージという創造の音である。

そのイメージされた音は、幻音ともいえる現実離れした音である場合も多い。

いつ頃から?どのようにして?そのイメージを思い描くようになったのか?。きっとどこかの時点で自分の想像を超える再生音に出会った経験が指標化されてしまったのではないだろうか?

そしてその音の刺激は”不快”ではなく”快”であったに違いない。
本来芸術は、”快”とか”不快”以外の要素にも本質があるのだろうが、嗜好の再生音に関しては常に”快”が必要だからだ。そしてその”快”を後生大事にしてイメージされた音を指して、再生"音"の芸術としているだけのことではないのか

音楽でも絵画でも、嗜好に則した”快”の方向で自分のイメージ通りであったり、超えたり、または想像すらできなかった世界観に出会うと大きな感動を覚えるもので、それはやはり現実離れしていても一向にかまわない、”我が意を得たり芸術の領域”と、信じ込みがちだ。

対して、日常耳にしている自然界の音(生楽器も含む)は、既に自分の頭の中に存在している音である場合が多く、また自分の想像の範疇を超えることも少ない。
このように生音に慣れ親しんでいるという現実が、かえって生音に対する芸術性を乏しく感じさせているとも考えられる。
現に私は生音に感動はするが、それが芸術性の成すところなのか皆目見当がつかない。

自分の嗜好の音をこよなく愛するオーディオマニア達の発する、正しい音は、「つまらない」「無難な音」「オーディオマニアが喜ばない」といった意見には、こういった背景の影響があるのではないのか?

と言うのも、正しい音の基準は、自然の生音だからだ。

もちろん媒体には人工の音も沢山入っているが、最初の音合わせは人間が耳にする自然界の音であり人工の音ではない。


さてさて、とても一個人の、それも芸術音痴の経験からの考察だけでは断定などできないが、オーディオマニアの言うところの再生"音"の芸術性の正体は、案外こんなところではなかろうか

最初に書いた通り、芸術なんてわからないので浅薄な考えかもしれない。芸術に深い造詣を持っているマニアから見れば無知の戯言でしかないだろう。事実そうだし。

結局私には”芸術再生音”が何たるかなど解らないのだが、マニアが再生"音"の芸術性を口にするのは、それなりの見識があってのことだだろうし、その様々な”芸術再生音”で音楽を聴いて、何をどう感じるかは各人の自由だし、何より自分自身が幸せに浸れるのなら、オーディオの最終目的も果たせるというものだ。

マニアたちが”芸術再生音”に対してどのような見識を持っているのかは知る由もないが、少なくとも芸術を振りかざせば、どんな音でも納得させられるなどと安易には考えていないだろう。きっと、”芸術再生音”とはどのようなものなのか、スッキリ消化できているに違いない。


さて、再生"音"の芸術性の正体と、正しい音との関係について考えてはみたものの、やはり芸術音痴の私にはハードルが高すぎるお題目だったようだ。

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