2018年3月30日金曜日

オーディオマニアは正しい音がお嫌い??

事実、オーディオマニアの中には、”正しい音”を忌み嫌い、理解すらしようしない人がいる。一体全体どういった了見で、そのような感情を抱くようになってしまったのか

今回も、過去の自分のケースも踏まえて考えてみたい。


音そのものに芸術性を求めるオーディオマニアの理想とは、自分自身のイメージだと、先の日記に書いた。
そんなイメージの音の構築を目指すマニアにとって、”正しい音”とは一体どのような存在なのか?

イメージから創造した嗜好の音の間違いを浮き彫りにしてしまう絶対的審判?ただの基準?それとも目の上のタンコブ?
表面的にはこのようなことが当てはまると思うが、根っこは多分違う。

でなければ、正しい音は「つまらない」「無難な音」「マニアが喜ばない音」という表現にはならないはずだ。実はこれらの発言の後には、大抵ある言葉が続く。


「自分には関係ない」

この発言の中に、心の奥底にある本音が隠されていると見た!


趣味のオーディオには、イメージの音に向かってオーディオ機器を買いそろえる楽しみ、使いこなす楽しみ。ソフトを選ぶのも楽しい。そして自分の手で機器類を作る楽しみもある。
つまり、自分の音を構築することが趣味のオーディオの醍醐味ともいえる。

そうして創造された音の中には自分自身の意志の介入、つまり自分自身の存在が不可欠で、反対に”正しい音”は自分自身の存在を出来る限り消し去ることになるから、そんな音は受け入れたくないという意思表示が、3つの発言に込められているのではないだろうか?後に理由を記述するが、これは誤解だと、私は敢えて言う。

「自分のいない音はつまらない」「自分のいない音だから、無難にまとめとこう」「自分がいない音では喜べない」

結局何を差し置いても”自分”が肝なのだ。


音楽制作サイドの人は、作品に自分が投影されている。その作品をそのままの姿で聴くということは、マニア自身がそこに存在しないという解釈になり、自分不在の音には意味がなく、趣味のオーディオは、自分が参加することにこそ意義があるという主張が聞こえてくるようだ。

過去の私がそうであったからといって、全てに当てはめるのは無理があるかもしれないが、大暴投的・外れでもないだろう。

事実私は自分で生録音をするようになってから、正しい音の必要性を強く感じて”正しい音”を探すことになった経緯がある。そしてそれを受け入れることができたのは、再生系に自分が存在しなくとも、最初の録音に自分の意志の介入があったからだと、今更ながらに気がついた。

しかし上記の考えもまた、釈然としない部分がある。それは、生録音をする、しないに関わらず、正しい音の為に”自分の嗜好を消し去る”という考えそのものが、自分の意志の介入にあたるからだ。

そして何より最終的には、作品の制作や、音そのものの構築に直接参加しなくても、自らの鑑賞行為で作品から刺激を受け、自分自身の考えが生まれ、能動的に感性を研ぎ澄ますという核心の部分だけは、自分不参加では絶対に成り立たないのである。そして刺激された感性は、また何かしらのイメージを生むことだろう。
参加の意義とは、ここに集約されてくるのではないだろうか!その結果、思いもよらぬ行動につながるかもしれない。(ピアノを習い始める、ダンスをする、絵を描く、ラーメンを食べる・・とか色々)

端折って言えば、そもそも作品は鑑賞者がいてナンボ、ということでもある。

鑑賞方法に関しては、この場では私の考えは省くが、見識の個人差、嗜好の音で聴く場合、正しい音で聴く場合など、それぞれの条件下で受けた刺激から得た感想、意見、評論という各段階において、適切な試聴条件が異なることは言うまでもないだろう。

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