2019年6月30日日曜日

オーディオの理想を追求するうえでの理屈

この地球上に人間が居ようが居まいが、そんなこととは関係なくは存在します。
その音を完全録音して完全再生させることこそオーディオの理想です。それが実現できたとして、その音こそが正しい再生音となります。これはオーディオの理想を追求するうえでの理屈です。


一般的な趣味のオーディオの大前提としては、人間の耳で聴く事が挙げられますが、自然界の音は人間の耳のことなど配慮していません。我々人間はこの地球上での物理現象としての音を、人間の耳の特性で持って聴いているだけです。

たとえ自然の音に人間の感情が揺さぶられるとしても、それは人間の受け止め方であって、自然の音の意図するところではありません。

オーディオの音も同じ物理現象なのですが、再生音を人間が聴くという大前提で行う趣味ですから、物理現象でしかない音に感情移入するといった複合的な聴き方も大前提として含んでいるわけです。

感情のない物理現象としての音に感情を入れるという聴き方は感受性豊かな人間らしいことですし、それに各人の耳や嗜好に合わせた音作りにも役立つのですから否定すべきことではありませんが、ただ時に利己的になりすぎて嗜好一辺倒で「オーディオの理想を追求するうえでの理屈」を全く受け入れようとしない、それどころか完全否定の無関係を決め込むような考えでは、それはもはやこの地球上に住んでいることさえ否定するかの如く独善的理屈といえましょう。

音に対して沸き立つ感情や感動は人それぞれで基準も違っていることが多く、一定でもなければ、ましてや絶対ではありません。それに比べて自然(生)の音そのものについては、様々な音があるにせよ、音を特定して考えれば絶対基準を持ちます。

こう考えると、人間の感情・感動を最優先で決めた再生音は、目安になっても基準にするには不安定で、ましてや他人様の嗜好の再生音など自分に当てはまらなくて当たり前に思えます。
感情・感動指数だけでは再生音の良し悪しや正否は断定できないということです。


理想の理屈を実現させるための録音・再生技術(方法)の模索は、現在も研究者たちが行っていると思います。

勿論、趣味のオーディオにおいては嗜好の音を目指すという理屈もあります。それもやはり全くの正論で否定できません。
しかし正論であったはずの嗜好の音の理屈が頑固さを増すと、他人の嗜好は認めない、けれど自分の嗜好は認めさせたいといった独善的理屈に化け、その理由として音に芸術性をこじ付けたりして他人に力説する傾向になりがちです。これこそが良くも悪くも感動指数の持つ力で、良いほうに捉えれば感動の分かち合い、悪く捉えれば感動共有の強要なのですが、それを聞かされたほうは、言い包められる(自分で考えて納得した気になる)と仲間や信者となり、でなければ離れるかです。

オーディオは言葉でするもんじゃないと思いたいのですが、再生音の考え方や音の聴き方を知らない人は、独善的理屈であっても、実音よりも言葉に影響されるウエイトの方が大きいので、自分にとって都合の良い話や権威に押されてじてしまうのです。
これは昔、私自身が信者になった苦い経験と、オーディオ販売に従事した経験、つまり実体験でもあります。

以前このブログで書いた「再生音の考え方」や「音の聴き方」は、「オーディオの理想を追求するうえでの理屈」が元になっています。つまり人の嗜好で作られた再生音を基準やお手本とはせず、生の物理現象としての音を基準とした考え方です。ただし生の音とは言え人が聴くのですから、感情感動指数から逃れることはできませんので、それは生音を聴いた時に感じた印象を基準とします(楽器演奏の音も同様に)。

ただ、ここで早とちりしてもらっては困るのは、多くの媒体は、生の音と同じ信号が記録されているとは限らないということです。

ユーザー側にとっては魑魅魍魎な媒体の音ですが、その媒体の音の正体を知る手掛かりが、以前から何度も書いている、”自分の耳で聴いたように録音する生録音”なのです。

そして、この録音の考え方こそが”オーディオの理想を追求するうえでの理屈”なのです。

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